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徳川家康公ゆかりの地を走る「家康さんは静岡で何してたの?」

家康公ゆかりの地を走る静岡マラソン。実は、家康公にゆかりのある史跡とコースは密接に絡み合いながらゴールまで導いています。幼少時の家康からこの世を去るまでの間の家康公と静岡の関わりを、改めてご紹介します。

幼少時代

静岡県民にとても愛されている家康ですが、生まれは三河(愛知県岡崎市)です。幼名は竹千代。6歳で織田家の人質となり、その後、8歳の時に今度は今川家の人質となり、駿府(静岡市)で19歳まで暮らすことになります。

そして、今川家の軍師である太原雪斎が住職をつとめる臨済寺(静岡市葵区)や清見寺(静岡市清水区)で、兵法・歴史・政治などさまざまなことを学んだといわれています。
“人質”というイメージからはほど遠く、大切に育てられていた竹千代おぼっちゃま。後に天下を取ることができたのは、この時の太原雪斎の教えの影響も大きかったのでしょう。

賎機山のふもと、今川氏の菩提寺でもある臨済寺。修行寺のため、拝観できるのは春と秋、年2回の特別公開時のみです。

大御所時代

江戸幕府を開いてから2年後、64歳となった家康は、2代秀忠に軍職を譲り大御所として駿府に戻ってきます。亡くなるまでの約10年間、まだまだ元気いっぱい活躍していた家康さん。駿府の町割りや安倍川の治水事業などを行い、現在の静岡市街地の原型が造られました。

家康による駿府の「大御所政権」は、江戸幕府を支える役割も果たしており、江戸をしのぐ政治・経済・文化の中心地として栄えていたのです。
駿府城において、アジア諸国やオランダ・スペインなどと外交も行っていました。
「駿府はかつて、日本の首都だったんだぞ! どうだどうだ!」と他県民にエラそうに言ってしまうと反感を買うおそれがあり、厳密に言うと事実ではないので、「首都みたいなもん」ぐらいにしておきましょう。

当時の駿府城天守台は、江戸城をしのぐ規模だったといわれています。
駿府城の天守は家康公により2度築かれますが、1635年の焼失後、再建されることはありませんでした。明治時代に石垣は崩され、堀も埋められてしまいました。

そして2016年8月より、長きにわたり地中に埋もれていたこの天守台を発掘するという、ロマンあふれる調査が行われています!!
発掘調査現場の見学もでき、見つかった品などは「発掘情報館 きゃっしる」で展示されています。

大権現

1616年、家康公は75歳でその生涯を閉じ、久能山に埋葬されます。
この時代に75歳まで長生きできたのは、自分で漢方薬を調合してしまうほど「健康オタク」だったからともいわれます。

「神となって江戸を守る」という、一般人が発言するとちょっとイタい遺言を残したといわれる徳川家康公。久能山に埋葬された1年後、その遺言通り「日光東照宮大権現」として、栃木県にある日光東照宮に祀られています。

静岡市にある久能山東照宮と富士山を結んだ延長線上に日光東照宮があることはわりと知られている話です。さらに日光東照宮は、江戸城のほぼ真北に位置し、その空には北極星が輝いています。

江戸時代260年という永きにわたる平和と文化の礎を築き、近代日本の発展に大きく貢献した徳川家康公。
静岡の地を安全に走れるのは「家康さんのおかげ!」と言っても過言ではないでしょう。

静岡マラソンのスタートは駿府城公園、そして臨済寺、久能山などゆかりの地を通りながら、フィニッシュを目指します。
天空から家康公が選手のみなさんを応援している……かも?!